2014年8月15日の活動

事務所。
市議と会合。
支持者会合。

 

特攻観音堂のある世田谷観音にて。
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特攻隊 菊水部隊 天山隊の碑。
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私が数えた範囲で27人の名前が刻まれており、靖国神社の境内には隊の名前はあっても
隊員の名前は境内には連なっていないので、重く感じました。

神州不滅特攻隊の碑。ここにも10人のお名前が。
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こちらが【特攻観音堂】。中に入って、焼香させて頂きました。

 天皇・皇后両陛下のお供えもあったので、お寺の方に伺ったら、陛下から献金を頂いたとおっしゃっていました。
 毎年9月23日には、慰霊祭が行われるとの事。
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知覧で【特攻隊員】のお世話をされた富屋食堂 鳥濱トメさんの孫、赤羽 潤さんが、知覧に今年、修学旅行に行く高校生を相手に話す機会に、お邪魔させて頂きました(特攻観音堂のある世田谷観音にて)。『トメが語って来た話』。(以下)
 特攻隊員は知覧に来て、早い人で1日、長い人で10日間で、死にに行く
 基地の中で“なでしこ隊”だったトメの次女 礼子が、特攻隊員はピリピリしていたと言っていたが、富屋食堂に来る時は、今で言うルンルン気分だった。
 特攻隊員は、17~20才前後の方々。テーブルいっぱいに食べ物を出してあげた。着物・タンスを食材に変えて。戦後、家の中は空っぽだった。
 隊員は金目の物は家に送ってしまうから、お金は持っていない。
 知覧から飛び立ったのは、439人。みんな富屋食堂に来た。陸軍で九州全体では、1036人。
 隊員のエピソードは沢山ある。

①トメが一番かわいがったのは、宮川三郎軍曹(新潟 小千谷出身)。特攻に行って何回か引き返して来て、上官に殴られた顔をして来る。20年6月5日に来て「明日行く」と。死ぬ前日が誕生日だったので、お祝いをした。「死ぬ前の日にお祝いをしてくれるのはうれしい。また引き返して来ていいか?」と言われたので、トメは「いいよ。何度でも引き返しておいで」。宮川さんは「蛍になって帰って来るから、帰って来たら『同期の桜』を歌って」。翌6月6日、霧のすごい日に、たけもとさんと出撃。
 たけもとさんは、食堂に帰って来て、ドアを半分くらい開けといてと言い、夜9時。1匹の源氏ボタルが入って来た。明日出撃の隊員がそこには6人いたが、その周りをぐるっと回って、止まった。「皆さん、この蛍は宮川さんですよ」とトメが言い、みんなで『同期の桜』を歌った。

②中島豊蔵軍曹。もともと知覧基地にいたが、知覧に帰って来たという事は、特攻隊員になったという事。
 知覧に来た時、富屋食堂の前で車から飛び降り、左腕を大ケガ。トメがお風呂をたいて、背中を流す。
 「沖縄を取られたら、みんなやられる。だから今すぐにでも行きたい。行かなきゃ、日本が危ない」と言ったが、トメは背中を流しながら「腕が治ってから行きなさい」と言い、泣いてしまった。泣いたのを隠す為に、トメは「お腹が痛いから泣いている」とウソをついた。中島軍曹は「明日は見送りに来なくていいから、家で寝ていてよ」と言った。
 腕を治してから行くように再三言ったが、翌日、中島さんは行った。操縦桿にケガをした左腕を自転車のチューブでくくりつけて。その事を、中島軍曹の搭乗機を整備した整備兵がトメに伝えに来た。それを聞いたトメは、上を向いて、泣いてしまわないように色んな事を思い出した。

③穴澤利夫少尉に、婚約者の伊達智恵子さんは「あなたの白いマフラーになって、一緒に付いて行きたい」と言い、穴澤さんは智恵子さんの付けていたマフラーを白いマフラーの下に巻いて、出撃した。

④特攻隊員達は、みんな笑顔で行ったと言われているが、出撃数時間前の軍の広報用で、「もっと笑顔で」と言われたから。
 万世基地から出撃した『ほがらか隊』(第72振武隊)が、小さな子犬を抱いている写真は、出撃数時間前の軍の広報用写真。シロという犬。
隊員は出撃前、みんな犬を抱っこした後、整備兵の所に泣きながら持って行った。
 死ぬのが怖いのは、当たり前の話。
 陸軍は17才から、海軍は16才から特攻隊。ちょうど(高校生の)みんなくらいの年。特攻隊員にはエリートでなければなれず、夢をかなえられるはずの人だったが、夢を地面に叩き付け、踏みつけて死にに行く。

⑤勝又勝男少尉は、人生50年と言われた時代だったので、「僕の残りの30年の寿命をおばちゃんにあげるから、長生きしてよ」と言った。

 戦後、米軍は、まず特攻基地を壊しに来た。当時は、何をされるか分からない恐怖があった。
 警察署長は「今度は米兵のお世話をして」とトメに言って来た。トメは「私は絶対にやりたくない」と言ったが、署長は「知覧の治安を守る為に頼む」。10日間くらい考え、知覧を守る為ならやろうと腹をくくった。
 米兵は、我が物顔で街では歩いているが、食堂では、暗くおとなしかった。
 米兵が「このペンダントは死んだ仲間の物。特攻機が当たって死んだ」。
 トメは最初、殺されるのを覚悟して引き受けた。
 日本人に拳銃を向け、周りに向けて撃っていたハスキンという米兵。「戦争に勝ったのだけど、帰りたいのに、帰れない」。
 特攻機は途中で撃ち落とされもしたが、魂だけは、敵艦に体当たり。
 帰りたいのは、お母さんの心の中。米兵も一緒だった。
 トメは、特攻隊員に「お母さん」と、米兵には「マミイ」と呼ばれていた。
 私は小学生の時、トメに「特攻隊員はなぜ死ぬ事が出来たの?」と聞いた。「あの子達には大和魂があった。思いやりの心の特攻魂があった。米兵が攻めて来るその時間を少しだけでも遅らせる事が出来ればと思った」。
 ぜひ知覧に行ったら、隊員の遺書を読んで。
 人生、生きていると登れない壁にぶち当たる事がある。死のうと思う人もいる。その時にもう1度、知覧に行って、遺書を読んで欲しい。自分が小さく感じる。
 皆さんも行って、1つ上の人になって下さい。

 戦後、トメは、拾って来た棒くいを立てて、毎日手を合わせた。昭和30年、外枠のお堂が完成。今現在知覧に建っている観音像は3代目。
 三角兵舎は、今ある物より、地面深く、もっと小さかった。
 特攻機は、250キロ爆弾と燃料満タンなので、重たく、向かい風でないと飛べないので、滑走路は2本あった。

 新宿3丁目にある『薩摩おごじょ』の店の名前は、戦時中、富屋食堂に来ていた特攻隊員に「(トメの娘・赤羽さんの母)礼子ちゃんは将来何になりたいの?」と聞かれて「富屋食堂のような食事を出す所をやりたいの」と答えたら、「薩摩おごじょがいいよ、礼ちゃん」と言われて、礼子はそれを日記に書き残してあった。
 そして45年前に『薩摩おごじょ』を開業。
 知覧の知覧茶屋は、トメの長女の息子が経営しており、とんこつ御膳がお薦めです(笑)。
 富屋食堂は、区画整理で取り壊しになったが、同じ場所に再建しました。(以上)

狭山に戻り、同級生と意見交換。