2014年9月23日の活動

『特攻隊員の遺書~何を訴えたかったか~』講演会。

【特攻機が、B29に体当たりした残骸】
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 体当たりを行ったのは、少年飛行兵 小林雄一軍曹(20才、パイロット)と鯉渕夏夫 兵長(当時19才
、後席)で、水戸飛行場から飛び立った。昭和20年1月27日。B29は、千葉県酒々井町(成田・佐倉市の間)に墜落。
 展示されていたのをしまう為に、たまたま触らせて頂きました。
 箱の中に入れた時、遺骨を納めているような気になり、とても切ない気持ちです。
 特攻隊員など戦死者の遺骨は、日本の場合、通常無いですし。
 (この残骸は、陸軍双発戦闘機「屠龍(とりゅう)」の機体の一部。この機体は平成8年、戦後51年たって搭乗員のご遺体と共に、発掘されたものとの事)
 特攻隊の事は知っていても、B29に体当たりした事は、知られていないでしょう。
 沖縄へ飛び立った特攻機は、残骸さえ、ほとんど残っていないでしょう。
 私が生まれる、わずか21年ほど前の出来事です。
 戦後69年と言う尺度で考えると、ずいぶん昔のようにとらえられそうですが。
 今日の気持ちを、決して忘れないで生きて行きます。
 皆さんにも、切なさが伝わりますように。

【特攻隊員の夕食風景】(少年飛行兵)
 中学校の修学旅行と思ってしまうほど、あどけない顔がいる。 若くして亡くなった1人1人の顔を見て下さい。
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【別れの盃】
 昭和19年12月、フィリピン基地。 陸軍特攻隊、旭光隊。
0923_03今日は、サザンの『蛍』の曲が、頭の中を回っています。


演劇公演『マザー』
の制作会社(エアスタジオ)の代表で、脚本家 藤森一朗氏が講師で講演(小平市中央公民館。以下概略)。
 安倍首相は「英霊の為に、不戦の誓いをした」と靖国神社に行って言うなら、靖国神社に行かないほうがいい。慰霊の為なら、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に行くべき。
 靖国神社は、‟顕彰”する為の場所。
 私に、特攻隊員の遺書を論評する事は出来ない。
 あそこまでして、沖縄では市民も戦って亡くなって、70年経って、なぜ今こうなってしまっているのか。
 歴史の授業は、現代からさかのぼって教えるべき。
 年号をいくら教えても、鎌倉幕府が開かれた年号は、今変わっている。1192年ではない。
 特攻隊は成功・失敗だったのか。失敗だったなんて言えない。しかし、あれが正しかったと言うと、それを命じた上官が正しかった事になるので、許せない。
 マッカーサーは、「沖縄を守る為だけに、あれだけの特攻隊が突っ込んで来た」と言った。日本が他国に分割統治されなかったのは、特攻隊のお陰。
 昭和20年の平均寿命は、23才。
 いまハワイの真珠湾に、戦艦アリゾナの横に展示してある潜水艦「ボービン」は、対馬丸を沈めた船なので抗議したい。
 徳川綱吉の時代までは、戦国時代がまだ色濃く残り、人殺しの時代だった。武で治める時代から、法律で治める時代への転換。だから、ショック療法として、‟生類憐みの令”を出した。犬を殺してはいけない。蚊まで殺してはいけない。
 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、吉良上野介を殺したから切腹になったのではない。切りつけなくても、殿中で刀を抜いた事で、切腹になった。何人もそれで、切腹になっている。浅野内匠頭は気が狂ったから切りつけたという事になっていれば、お家お取り潰しにならなかった。吉良は幕府内で最後まで浅野家を守ろうとした。しかし、殺しに来た。平成6年に、浅野家と伊達家が茶会を開いて和解。
 日本人で初めて世界一周し、リンカーンにも会っている『小栗上野介』は、日米通貨の換金で、銀の交換について、米国は不平等だと言って、米国に認めさせた。小栗は政府軍に首をはねられたが、いま日本語を話していられるのは、小栗のお陰。勝海舟はサンフランシスコに上陸せず、アメリカに向かう咸臨丸の甲板に出たのは3回だけ。
 日本が一番景気が良かったのは、バブルではなく、2000年~2008年。

特攻隊員の写真が講演会会場に飾ってありました。
講演会後、参加者で懇親。マザーの出演者・制作会社や、小平公演の実行委員さんにお話を伺いました。小平では来年も、戦争の演劇を行う計画との事。
(10時過ぎに帰宅)