2015年1月17日の活動

市民要望対応。
市PTA連合会。
市内ボランティアのお宅訪問。

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【もしもここに来ていなかったら、私の人生は】
 阪神淡路大震災から、20年。もしもここに20年前、来ていなかったら、今の私は存在しません。きっぱり言い切れます。阪神大震災が私の原点です。震災の時にお世話になった所を先日回って来ました。今日1月17日、市のPTA連合会新年会があって私から話をさせて頂く時間を頂戴したので、短く以下のように話しました。
「私は20年前の今日まで、議員になろうとは思っていませんでした。
 20年前私は病院で看護助手をやっていました。しかし、学生時代自転車で日本一周した時見たあの神戸が、ゴジラに襲われたようになり、居てもたってもいられず、お手伝いに伺いました。
 何が申し上げたいかと言うと、狭山の出来るだけ多くの子供達が、(TVやパソコンを見て、知ったようなフリをするのではなく)自分は、何々をやってみたい、どこどこに行きたいと思えるように、今年も皆さんのお力をお借りしたいと思います」。


神戸の中心、三宮。そごうも地震の被害に遭いました。震災前の面影も残しながら、復興しています。
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ここに災害ボランティアセンターが。
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 阪神大震災の時、ここに灘区災害ボランティアセンターがあり、私はリーダーの1人でした。
 現在とは違って、当時区役所は『ボランティア』というものの存在を認知せず、1日毎に新たに全国から3千人以上のボランティアの方々がお見えになるのに、どう考えても被災者の方は困っているのに、区役所に寄せられる住民の声がボランティアセンターには届けられず(区役所は「出来ない」と断るのみでした)、ボランティアの方に何も役割をお願い出来ず、何もしないまま帰って頂かざるを得ない状況が続きました。そこで私を中心に、区長に直談判。翌日以降は、区役所に届く住民の要望でも、ボランティアが活動出来るようになりました。これが結果として、私の初めての政治活動となりました。
 またボランティアセンターにはテントはあるものの、運営する為の機器(FAX・コピーなど)など何もなく、企業に支援をお願いして回りました。
 “ボランティア元年”とマスコミでは報道されましたが、現場はそんな悠長な状態ではありませんでした。

私が泊まっていた避難所(県立神戸高校 体育館)
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 朝から夜遅くまで灘区役所の災害ボランティアセンターでお手伝いさせて頂き、寝るのは避難所でした。季節は1月。寝袋は持って行きましたが冬用ではなく、どんなに毛布をかけても寒くて中々眠れませんでした。
 この避難所は地域のサッカーチームの役員がトップとなり、地域で立派に運営されていました(その後、避難所のリーダーは、Jリーグチームのコーチに就任されました)。
 避難所の方が口々に言われていたのは、「役所の職員は、役に立たない」「役所の職員には、避難所に来なくていいと言っている」と。その一方で、一部の区職員は夜遅くまで仕事をしていました。被災者のぶつけようの無い感情論ではなく、区のやっている事と住民がやって欲しいと思っている事に食い違いがある事が分かり、非常時・災害時でも連携出来ない役所とは何なんだろうと思いました。
 まして神戸市は、市民が「自分は神戸市民だ」というプライドを持った方が多い地域でこういう状況なら、狭山はもっと大変だと思いました。すると狭山に帰ってから、赤十字の方などに話しているうちに「市議会議員に立候補したら?」との提案を頂きました。

私が泊まっていた避難所への坂
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 被災地は芦屋から先は電車が通じておらず、自転車を担いで被災地に向かい、芦屋で自転車を組立て灘区へ向かいました。ボランティアで昼間は区役所、夜は避難所。写真のような坂を延々自転車で登りました。立ちこぎでなければ、すぐ止まってしまう急坂です。
 夜は体育館のストーブを被災者の方と囲んで、遅くまでお話を伺いました。
 神戸に着いてから10日目にして、カップラーメンを頂きました。カップラーメンが無かった訳ではないのですが、我々はお手伝いに来た身との自制から手にしませんでした。そのカップラーメンの温かさは今でも忘れられません。銭湯に入ったのは、12日目くらいだったと思います。
 今は遠い昔の思い出です。

神戸市役所
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 震災では、手前の建物の6階部分が完全につぶれていました。
 私は灘区災害ボランティアセンターのリーダーとして、神戸市役所の災害対策本部に情報収集・伝達に行きましたが、写真奥の高層棟の確か6階くらいに災害対策本部があり、震災後なのでエレベーターは動かず、階段を延々登ったのを憶えています。

当時の写真 阪神大震災 市役所写真

神戸市役所のつなぎ目
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写真の渡り廊下は、震災前、上にもう1つありましたが、地震で落ちてしまいました。
 左側の建物の黒い部分、2本線がつなぎ目の面影です。

当時の写真 阪神大震災 市役所写真

 

川嶋あい -しあわせ運べるように

亡くなった方々の分も
 毎日を大切に生きていこう
 幸せ運べるように