2011年10月10日の活動

所沢市長 当麻よし子 新マニフェスト発表会。
樋口恵子氏講演。
 人生で大事なのはスタートと、言っては何だがゴール。

 男と女は違う。違いを大事にする事が大事。
 これ以上次の世代にツケを回さない事、赤字財政の解消が大事。
 加害者意識は無かったが、次の世代に被害を及ぼしてしまった。除染の研究を定年を過ぎた老学者が取り組んでいる。5年という期間は被災者には途方もない期間だが、5年で除染を行えれば、これまでにない例になる。
 水俣病。母親が食べた魚で体内被曝、子供は重症で生まれた。女性が政治に加わらなければ。もちろん、よい首長は性別によらないが、女性の市長が少な過ぎる。
 人生100年、全ての人に居場所と出番を。原発事故は想定出来なかったが、高齢社会は想定できる。今システム変更をしていかなければ。

福島県双葉町長 井戸川克隆氏講演。
 震災から今日で丸7か月。明日また新たな11日を迎える。
 震災当時、私は隣町にいて、一刻も早くまちに帰らなければと思ったが、渋滞が既に始まっており、何とか役場に戻った。通っていた海沿いの道路に10分後津波が来た。
 川俣町に1回目の避難。2施設・1病院の避難が遅れた。原発の爆発音を聞き、もう終わりかなと思ったが、夢中で避難。3月15日の2回目の爆発で決意を決めた。私は闘うのでなく、逃げようと。
 埼玉県のスーパーアリーナで受け入れて頂けると聞いた時には、本当に嬉しかった。バス40台で避難。川俣町にいた時には3千人いたが、1300人でお邪魔した。遠くに避難したのは、役場機能を早く立ち上げる為と、職業につく為。町民の過半数は県外避難している。
 私は町長の他、双葉郡町村会の会長もしている。色んな大学教授が発信している為、いろんな情報があり、まとまるのが難しい。しかし、どこに避難しろとの指示は今日までない。
 よく「原発の交付金で豊かだったでしょう」と言われるが、インフラ整備に使って、全部置いて来てしまった。1ミリシーベルトがいいのか20ミリがいいのか分からない。
 双葉町では復興計画をまだ作っていない。双葉町は一番原発に近く、他の町村は原発から比較的離れている。2年で帰れると言う人もいれば、帰れないと言う人もいる。お年寄りが私の顔を見ると「帰っぺ」と言われるが、「うん。帰っぺ」としか言えない状態が続いている。
 原発は普段から気にしていた。しかし、失敗だったなという思いがある。危機管理の準備が出来なかった。こういう場合はこうしようという約束が、町民の皆さんと事前に出来なかった。
 所沢の皆さんに言いたいのは、市民と行政との役割分担が必要だという事。町職員100人。町民が元気なのは口だけ。
 川俣町にいた時は、徹夜続き。今も決済処理が中々進まない。夜が無いといいな、寝てる時間が無いといいと思う。
 政府系の支援は災害救助法に基づく支援。行政では出来ない支援を、皆さんに色々考えてやって頂いている。
 平成19年の“派遣村”の状況を見て、この国は人々を見捨ててしまうのかと思った。
 気持ちで共有してもらうのが一番有り難い。町内にいれば、まぎれていたが、ご迷惑をかけている者もいるが、励まされるのは有り難い。
 スピーディー(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が公表されていれば、浪江町は必要以上に被曝しなくて済んだ。私もヨウ素被曝して、声にならなかった時期がある。当時の状況について、本当の事を出してくれないのかも知れない。出すべき。出す国であって欲しい。何か手立てが無いかと思い悩んでいる。現実は厳しい中にある。
 浪江町での避難時、災害対策本部の電話は、全国各地からの安否確認で使えず、機能しなかった。災害があった時には、自分で知り合いに確認して欲しい。ガソリンは常に満タンにする習慣を。ガソリンが無くなって逃げられなかった人が沢山いた。
 所沢市には現在震災の避難者130人がいるとの事。


福島県双葉町長さんと再会

 

 講演終了後、町長さんと個人的にお話したら、スタッフの方に私の事を「新しい感覚で苦労されている方」と紹介して下さり、恐縮。先日お会いした時に町長から言われた事を原子力保安院に私から話しましたと伝えました。
 町長さんは、被災地の除染だけでなく、被災者の体の除染が必要。町長自身も声がふたつに分かれてしまったとおっしゃられ、私からは埼玉県内のお茶の放射線騒動について話しました。

民主党埼玉県連代表 武正衆議院議員と昨日の厚労省との意見交換結果について報告。

新聞記者と意見交換。
県議・労組役員と会合。
国会議員への直訴状作成。
 お茶の放射線騒動について。厚労大臣もしくは野田総理に、お茶の暫定規制値を飲用を基準にして頂きたいと要請したい旨。