2013年4月4日の活動

県議会会派視察。

米沢市の全ての学校には、上杉鷹山公の絵が飾られている。
0404_01_01山形県米沢市立興常小学校。

米沢市上杉博物館。
 (私が以前からこちらでどうしても伺いたかったテーマは、上杉鷹山公が飢饉の中でも、破綻しかけていた藩の財政改革をどう成し遂げたのか。資料も3冊買い求めました)(以下、ご説明)
 平成13年建設。
 土器の展示から始まる博物館がほとんどだったが、それではつまらないという事で、川中島の戦いの時代から展示を始めている。(特化した所がいいなと思いました。学生時代、自転車で日本一周して、全国の博物館などを見て来て、他の博物館と変わり映えしない土器や農工具の展示はつまらないと思っていましたが、博物館の職員がそのようにおっしゃるのは珍しく、博物館建設時に、業者に丸投げしたのでなく、職員が細かな事まで関わっていた事が展示内容からも分かった)
 国宝『洛中洛外図』は、外部の人がその写真などを掲載する時、申請が必要だが、センター試験に出題する時はさすがにそれを事前に公表する訳にはいかなくなかった。国宝は展示期間が60日間と決まっていて、今回上野で展示する事になったが、外に貸し出す期間もそれに含まれる。洛中洛外図の複製は制作費6500万円。貸し出し時、保険に入る事から評価額を算定したら10億円との事。バブルの時20億円の値が付けられたが、それでも売らなかった。“ウォーリーを探せ”のように図の中の人を探すのが流行ったが、この図には、南蛮人も猫も書かれていない。
 藩は米沢に移って来た時、また越後に戻れるのではないかと10年間まちづくりをしなかった。
 120万石、60万石、30万石、15万石と石高は減少し続けたのに、120万石の時代の武士の人数のままだったので、下級武士は城下に入りきれなかった。
 上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する。
 一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣6,000人を召し放つ事をほぼせず、家臣も上杉家へ仕える事を誇りとして離れず、この為他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。名家の格式にこだわり、誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった藩政。
 家臣は、収入を増やそうとして重税を課したので、逃げる者も多く、13万人の人口は、1760年頃には10万人程度にまで減少していた。
 上杉謙信の墓は本丸にあり、二の丸には寺院があった珍しい城だったが、明治時代に上杉神社をつくり、墓を現在の所に移した。
 二代藩主の親戚にキリシタンがいて、藩でかくまい、日本では天草に次いで米沢は巡礼地になっている。
 江戸時代、後継ぎがない藩は幕府から取りつぶされた。
 石高が15万石になったとは言え、山形に15万石あるのは米沢藩ともう1藩しかない。
 借金返済の意識は、上杉鷹山公の時代まで藩になかった。
 前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほど。
 新藩主に就任した鷹山公は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。
 上杉鷹山公は1773年“大倹約令”を発する。「志記」という倹約についての文書を藩士にあたえ、「今日の生活を犠牲にしてでも、明日の立ち直りを考えなければならない。無駄な経費は今後10年間省略する」と書いた。
 上杉家は元々あった120万石の格式にこだわり、3万石の藩から養子に来た鷹山を諸大名は馬鹿にし、“改革の中止・人事一新”を藩士全員が望んでいると7人の家臣が訴えた“七家騒動”(鷹山当時23才)。 1783年(天明3年)には天明の大飢饉。
 天明5年、鷹山公は35才で隠居し、改革に腰を据えようとするが、思うようにいかない。
 毎年襲って来る大洪水や干ばつによる田畑の流出や農民の逃散などで、せっかく起こした耕地が荒れ果て、農民が耕作への希望を失っていた事から鷹山公は、『籍田の礼』を行い、ある村の荒れた田の土に対して、数回ずつ鍬(すき)を入れた。藩主自らが鍬を取って耕す事は前例がなく、農民は感激し、武士達も農業の大切さを悟り、荒れた田の開墾に従事した。
 1771年“会計1円帳”によって、初めて藩の1年間の収支を明らかにし、財政再建への協力を求めた。
 収入3万522両。支出3万667両の他に、借金返済が3万9961両。
 借金総額は16万両。
 また隠居してから、『16ヶ年計画』という財政再建計画を立て(埼玉県でも3年間しか財政計画は立てていません)、借金を返済。
 鷹山死後2年目(1824年)、支出3万5776両のうち、借金返済4千両に大幅に減り、鷹山公の改革が成果をあげた事が分かる。
 様々な施策と決断で、破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の藩主:斉定時代に借債を完済した。
 鷹山公など養子の主君は頑張る。
 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている、鷹山の政治哲学は、儒学者細井平州らの指導によるところが大きい。米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。訳すと「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味。
 鷹山が細井平州の提案で興した、米沢藩藩校興譲館の学則には『紀徳民』とある。
 ケネディ大統領が、日本人記者団との会見で「最も尊敬する日本人は、上杉鷹山」と答えた。

逸話
 正室の幸姫(よしひめ)は治憲の2歳年下。
 彼女には、脳障害・発育障害があったと言われている。脳性麻痺との所見の医師も。彼女は1769年(明和6年)に鷹山公と婚礼を上げ、1782年(天明2年)に30歳で死去するという短い生涯。
 しかし鷹山公は、幸姫を邪険にする事なく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、2人は仲睦まじく暮らした。
 彼女の父、重定は娘の遺品を手にして、身体的にも精神的にも10才程度というその状態を初めて知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという(家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていなかった)。
 鷹山公と側室の死は4ヶ月違い。側室は10才上。
 (以上。現地で直接伺った事以外に視察後、視察の総括の為、先輩の浅野目県議に教えて頂き、加筆しています。後日更新予定)
 鷹山公の「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」の精神で、今後頑張ろうと思います。

狭山に戻り、入間基地の観桜会で基地司令など隊員の方とお話させて頂く。
建築業の方から、有料橋無料化について要望頂く。
同世代の経営者と会合。